パーソナルグローバリゼーション② – パールハーバー?

私のパーソナルグローバリゼーションに一番強く影響を与えたのはやはりアメリカ留学時代。高校まで田舎の公立に通った世間知らずな娘が、遠くアメリカの地で多感な時期を過ごしました。サマースクールで3ヶ月ボストンで過ごした後、バージニア州の片田舎の女子大に2年、ニューヨーク州北部のマンモス大学シラキュースに2年半、その間にロンドンにも交換留学しました。ロンドン滞在中にはヨーロッパ諸国を放浪する機会もあり、すべてが新鮮で刺激的でした。

アメリカの大学生で何が一番良かったかと聞かれたら、いろいろな人々と出会い、多様性を肌で感じることができたことだと思います。全く違う価値観やバックグラウンドを持つ人々に触れることで、「違い」を受け入れる心のベースができたのでしょう。

大学時代はいろいろなことがありましたが、今でも忘れられないのは、お店に入った時に突然「パールハーバー!」と言われたことと、オクラホマ爆発事件の後(当初イスラム教徒の犯行だと思われていた)、ベールを被ったモスリムのクラスメートがウォールマートで「野蛮な異教徒」とアメリカ人のおばさんに言われた時のこと。その時とっさに「ネガティブな感情は無知から生まれる」と感じました。

その時からです。「グローバリゼーション」の中で必要なことは、多様性を受け入れることに他ならず、それは国家という大きな存在だけでなく、人々の小さな出会い、草の根的な交流から始まるものだ、ということを確信したのは。だから私たち一人ひとりが「アンバサダー」なのです。

パーソナルグローバリゼーション① – ショッキングなホームステイ体験

私の初海外は中学校1年の時に祖母に連れられていった中国旅行。

2回目の海外は、中学2年の夏に行ったアメリカでのホームステイ。オハイオ州の小さな町の一般家庭で過ごした1ヶ月間はかなり衝撃的な体験でした。

まず、ホストファミリーが敬虔なモルモン教徒だったこと。毎週日曜は教会へ行き、日本語バイブルまで用意してくれていて、それを読まなければいけなかったこと。毎食前のお祈りが長くてとってもお腹が空いたこと。お祈りのためなのか外食を一切せず、ファーストフードも必ずテイクアウトだったこと。お昼は毎日ピーナッツバターとピーチジェリーのサンドイッチ一切れでとってもお腹が空いたこと。シャワーは毎日浴びれず、水曜と教会へ行く前日の土曜日のみ、あとは体を濡れタオルで拭くだけだったこと。新聞配達をしたこと。カウンティフェア(地元の農業祭)で地元紙の取材を受け、「Yokoはアイスクリームとコーンが好物だ」と書かれたこと(英語がほとんどしゃべれなかったので、ひたすらI like ….と言っていたのだと思う)、真顔で忍者はいるのかと聞かれたこと、などなど、今風(?)に言うと「びっくりぽん」な、できごとばかりだったと記憶しています。

その時に感じたのは、「彼ら(田舎に住んでいるアメリカ人)は無知だ」ということ、そして「彼らは私を通じて日本を見ている」ということでした。

今まで日本と全く接点がなかった人が私に出会ったことで、少しだけ日本を身近に感じるようになったり、私の言動が彼らの日本に対する印象に影響を与えること、それは「日本=私」と言っても過言でないほどでした。その体験を通じて、私は一人の個人でしかないけれど、私という存在はある種日本を代表しているものだ、ということに気づき、勝手に「自分=民間アンバサダー」なんだと実感したものでした。

グローバルに生きるには

グローバリゼーションやグローバル化という言葉は現代を語る上で欠かせない単語となり、耳にしない日はないほどに世の中に浸透しています。私がこの単語をよく聞くようになったは、90年代後半アメリカの大学で国際関係学を専攻していた時。その頃は、日本企業の成功やトヨタのカイゼンがもてはやされ、いかに日本が敗戦国家から世界2位の経済大国に成長したか、が多く研究されていた時代でした。私はEU に関するクラスを多く受講していたので、グローバリゼーションに対しても比較的ポジティブなイメージを持っていたように思います。国家を超えて隣国が協力することにより、平和と安定した情勢が築けるはず、と。ただ、国と国とがボーダレスになっていくにつれて、もはや国単位で物事は解決せず、多国籍企業は安い労働力を求めて国境を越えて工場を移転。かつて自動車産業で栄えたデトロイトでは失業者が続出し、それをドキュメンタリーにしたジュリアンムーア監督の作品が衝撃的だったことを覚えています。

現在の状況はどうでしょう。9.11から続くテロの問題や難民問題、リーマンショックを始めとする金融問題など、グローバリゼーションのネガティブな側面が顕著になっているのではないでしょうか。

そして日本の世界におけるポジションもすっかり変わってしまいました。90年代にもてはやされた日本の発展は影を潜め、少し前までは日本といえば「高級」な国だったのに、今では「爆買い」が話題となるような、なんだか安い国になってしまった気がします。

私は2011年から約3年半ベトナム中部の町ホイアンに暮らし、その後帰国した際にかなりカルチャーショックを受けました。まず、外国人観光客の多さ。デパートもブランドショップでも外国語(特に中国語)が飛び交い、中国人が日本製品を「爆買い」していると聞き、実際に大きなスーツケースを転がしながらデパートを闊歩する彼らの姿に圧倒されました。今ではその姿にも見慣れましたが、初めは驚きを隠せませんでした。

政府が掲げる外国人観光客誘致の数的目標。数だけは順調に増えているようですが、かといって日本人がグローバル化に対応しているとは言えないのが現状です。もちろん外国語表記は増えましたし、目にする外国人の数は圧倒的に増えました。ただ、彼らに直接関わりのある観光業や小売業に携わっていない場合、外国人に自国を乗っ取られたような居心地の悪さを感じたり、ネガティブな印象を持っている人も少なからずいるように思います。ネガティブとまでいかなくとも、慣れてない感は拭えません。

長年、島国として外との距離間を保って生活してきた日本人。あうんの呼吸と以心伝心、一を聞いて十を知るという、察する文化。「言わなくてもわかる」「わかりあえる」という前提条件の上に成り立つ社会。そのような社会で生きる日本人は、グローバルで生きるメンタリティが明らかに欠けていると言わざるをえません。

グローバルに生きることは、その多様性を受容することに他なりません。「ダイバーシティ」という単語はよく聞かれるようになりましたが、本当の意味でのダイバーシティが日本人全体に浸透しているかといえば、かなり疑問です。そして「多様性」を受け入れるということは、「わかりあえない」という原点に立ち戻ること。「わかりあえない」から、伝えなければならないのです。伝える手段はもちろん言葉でのコミュニケーション、それに加えてノンバーバル(非言語)コミュニケーションも必須です。ノンバーバルには表情やジェスチャー、それに加えて外見(見た目)要素も含まれます。

私が取り込んでいるのは、わかりあえない世の中で、伝える技術、表現する技術です。多様性や違いを認め、その上で自分の考えを伝えること。そのための手段を模索しています。