グローバルに生きるには

グローバリゼーションやグローバル化という言葉は現代を語る上で欠かせない単語となり、耳にしない日はないほどに世の中に浸透しています。私がこの単語をよく聞くようになったは、90年代後半アメリカの大学で国際関係学を専攻していた時。その頃は、日本企業の成功やトヨタのカイゼンがもてはやされ、いかに日本が敗戦国家から世界2位の経済大国に成長したか、が多く研究されていた時代でした。私はEU に関するクラスを多く受講していたので、グローバリゼーションに対しても比較的ポジティブなイメージを持っていたように思います。国家を超えて隣国が協力することにより、平和と安定した情勢が築けるはず、と。ただ、国と国とがボーダレスになっていくにつれて、もはや国単位で物事は解決せず、多国籍企業は安い労働力を求めて国境を越えて工場を移転。かつて自動車産業で栄えたデトロイトでは失業者が続出し、それをドキュメンタリーにしたジュリアンムーア監督の作品が衝撃的だったことを覚えています。

現在の状況はどうでしょう。9.11から続くテロの問題や難民問題、リーマンショックを始めとする金融問題など、グローバリゼーションのネガティブな側面が顕著になっているのではないでしょうか。

そして日本の世界におけるポジションもすっかり変わってしまいました。90年代にもてはやされた日本の発展は影を潜め、少し前までは日本といえば「高級」な国だったのに、今では「爆買い」が話題となるような、なんだか安い国になってしまった気がします。

私は2011年から約3年半ベトナム中部の町ホイアンに暮らし、その後帰国した際にかなりカルチャーショックを受けました。まず、外国人観光客の多さ。デパートもブランドショップでも外国語(特に中国語)が飛び交い、中国人が日本製品を「爆買い」していると聞き、実際に大きなスーツケースを転がしながらデパートを闊歩する彼らの姿に圧倒されました。今ではその姿にも見慣れましたが、初めは驚きを隠せませんでした。

政府が掲げる外国人観光客誘致の数的目標。数だけは順調に増えているようですが、かといって日本人がグローバル化に対応しているとは言えないのが現状です。もちろん外国語表記は増えましたし、目にする外国人の数は圧倒的に増えました。ただ、彼らに直接関わりのある観光業や小売業に携わっていない場合、外国人に自国を乗っ取られたような居心地の悪さを感じたり、ネガティブな印象を持っている人も少なからずいるように思います。ネガティブとまでいかなくとも、慣れてない感は拭えません。

長年、島国として外との距離間を保って生活してきた日本人。あうんの呼吸と以心伝心、一を聞いて十を知るという、察する文化。「言わなくてもわかる」「わかりあえる」という前提条件の上に成り立つ社会。そのような社会で生きる日本人は、グローバルで生きるメンタリティが明らかに欠けていると言わざるをえません。

グローバルに生きることは、その多様性を受容することに他なりません。「ダイバーシティ」という単語はよく聞かれるようになりましたが、本当の意味でのダイバーシティが日本人全体に浸透しているかといえば、かなり疑問です。そして「多様性」を受け入れるということは、「わかりあえない」という原点に立ち戻ること。「わかりあえない」から、伝えなければならないのです。伝える手段はもちろん言葉でのコミュニケーション、それに加えてノンバーバル(非言語)コミュニケーションも必須です。ノンバーバルには表情やジェスチャー、それに加えて外見(見た目)要素も含まれます。

私が取り込んでいるのは、わかりあえない世の中で、伝える技術、表現する技術です。多様性や違いを認め、その上で自分の考えを伝えること。そのための手段を模索しています。